コラム




 ほぼ30年前の1985年10月。ロンドンのバービカン・シアターの客席に東宝の演劇プロデューサーたちの姿があった。そう、数日前に初日の幕を開けた新作ミュージカル『レ・ミゼラブル』を見に来たのだ。
「これは、もう日本で上演せねば!」。見始めてまもなく、プロデューサーたちは思い定める。幕が開いて30分後、「一日の終わりに」のナンバーが始まった途端に震えるほどの興奮を覚え、一気にそんな思いに至ったという。仮釈放されたジャン・バルジャンが、司教に救われたのちに市長になったモントルイユ・シュール・メールの冒頭シーン。原作の翻訳文庫5冊中約1冊分を30分で見せてしまった、その辺りである。
 ミュージカル『レ・ミゼラブル』が最初に生まれたのは80年のパリ。アラン・ブーブリル作詞・脚本、クロード=ミッシェル・シェーンベルク作曲・脚本による新作で、パリ市内のパレ・デ・スポールで期間限定公演されたものだ。もっとも、当時のフランスはミュージカル不毛の地で、一部で話題になったきりだった。上演版のレコードを聴いたイギリスの辣腕プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが、音楽に感動したところから、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のやがて世界へ向かう旅が始まる。
 マッキントッシュは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の演出家トレバー・ナンに作品の練り直しを依頼。ナンは、やはりRSCの演出家ジョン・ケアードと共にRSC全体を巻き込んで、新たな作品作りに取りかかった。商業演劇の大物プロデユーサーと、「王立」の名を冠した、つまり国の劇団とがタッグを組んだ、きわめて稀なケースでもあった。新作『レ・ミゼラブル』は85年10月8日に世界初演の幕を開ける。

1985年ロンドン初演より

 そのマッキントッシュに、東宝のプロデューサーは早速『レ・ミゼラブル』翻訳上演の交渉を始める。実は当初、東宝は別の作品の翻訳上演交渉を予定していたのだが、『レ・ミゼラブル』の舞台に感銘を受けたプロデューサーたちの提言で急遽変更になったのだった。それほど『レミゼ』のインパクトは強く、プロデューサーの1人は東宝本社に連絡して版権交渉のため無期限でロンドンに居続ける許可まで得たほどであった。
 ほぼ半年後、86年が明けて数か月。前代未聞の驚くべき一面広告が新聞を飾る。『レ・ミゼラブル』キャスト・オーディションの広告である。ジャン・バルジャン、ジャベール、マリウス、コゼットなどなど主要キャストのキャラクター説明と声域などを記した、全キャスト・オープン・オーディションの広告だ。

1986年4月30日付新聞広告

 いまでこそ、キャスト決定のためのオーディションはごく普通のこととして定着しているけれど、当時は全く違っていた。座内や劇団内はともあれ、普通は作品ごとのオーディションなどなく、ましてや誰もが受けられるオープン・オーディションなどあるわけもなかった。それどころか、実績や名のある俳優にオーディションの話を持って行くだけでも「失礼な!」と一蹴されてしまう状況だったのだ。
 日本のショー習慣に風穴を開ける思い切ったキャスティング・システムを敢えて打ち出したのは、マッキントッシュの主張があったからだ。「『レ・ミゼラブル』はスターが演じるミュージカルではなく、スターを作るミュージカルなのだ」という、今も生き続けるポリシーである。オーディション広告の少し後、雑誌に出た公演広告には、こうある。「世界最高・最新の傑作、ついに帝劇で上演! 珠玉の名曲32をちりばめ、全配役をオーディションで決定! ロンドンの超一流スタッフと日本の若い才能が創り出す!」。これだけで、『レ・ミゼラブル』にかける意気込みが分かろうというものだ。

 
全オーディション告知チラシ&作品告知チラシ

 86年の前半は、どのミュージカルの稽古場でも、『レミゼ』オーディションの話題で沸いていたものだ。翻訳ミュージカル経験が多く、海外のミュージカル事情に詳しい俳優たちにはオーディションは抵抗なく受け入れられ、歓迎もされた。けれど、一方では抵抗もあった。プロデューサーたちは、それぞれの役にふさわしいと思える実績や名前のある俳優たちをピックアップし、個別に訪ねてはオーディションを受けてくれるよう説得して回ったのだった。
 ロンドンのスタッフを交えたオーディションが続き、やがて初演キャストが発表されたのは、帝劇初演のほとんど1年前のことだ。そのキャスティングにもまた、驚きの「初めて」があった。ジャン・バルジャンとジャベールを鹿賀丈史と滝田栄が交互で演じるというものである。どちらも物語の芯を牽引する役にして、いわば表裏を構成するキャラクター。それを交互で、という、これまた前代未聞のキャスティングであった。

1986年7月17日 オーディション配役発表会見

 急いで他のキャストも挙げておこう。テナルディエ夫妻に斎藤晴彦と鳳蘭。コゼットに斉藤由貴、マリウスに野口五郎、ファンテーヌに岩崎宏美、エポニーヌに島田歌穂、アンジョルラスに内田直哉。またアンサンブルには安﨑求、田代隆秀、荒井洸子、藤田朋子ら。
 大河ドラマの主演スターから人気アイドル女優、元宝塚トップスターからアングラ系のベテラン俳優、歌謡曲からオペラの歌手、さらに学生まで多彩な人材が集まった。開幕まで1年。『レ・ミゼラブル』は「初めて」ずくめの歩みを、さらに進めていく。
(文中敬称略)