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 『ミス・サイゴン』は、『レ・ミゼラブル』のクリエイティブ・チームが手がける第2弾として製作され、日本では1992年から1年半の帝劇ロングラン以来、通算上演回数1463回を重ねる大ヒット作です。

 舞台は、ベトナム戦争末期のサイゴン。エンジニアの経営するキャバレーで知り合った、ベトナム人の少女キムと米兵クリスの二人の愛、別離、運命的な再会。そして、キムの子タムへの究極の愛・・・『ミス・サイゴン』はすべてを歌で表現します。

 装置のスケールも規格外で、キムとクリスの別離は、実物大のヘリコプターが登場する象徴的なシーンとしてあまりにも有名です。

 音楽、スケール、魂を揺さぶる感動、どれをとっても「伝説」として語り継がれる作品は、『ミス・サイゴン』をおいて他にありません。

 戦争の悲劇が私達とそう遠くない世界で繰り広げられる今、少女キムの思いを帝劇の空間いっぱいに心を込めてお届けします。

 ベトナム戦争は、初めて戦場の様子が、テレビで伝えられた戦争だ。1975年4月30日ニュースで、北ベトナム軍の戦車が南ベトナムの大統領官邸のフェンスを突破し建物に、北ベトナム軍の旗が打ち振られる映像を人々は目にした。超大国アメリカと南ベトナムの敗北、サイゴン陥落を象徴する映像だった。
 そして、サイゴン陥落の混乱の映像もニュースで流された。北ベトナム軍の報復を恐れた市民たちが、アメリカ大使館やタイソンニュイット空軍基地に押し寄せた。離陸しようと滑走する飛行機にすがりつく人々、それを排除しようとする米軍兵士、恐怖が混沌を引き起こしていた。舞台で描かれるように、市民が詰め掛けるアメリカ大使館のゲート、閉ざされたゲートの隙間から転がり込むように中に入る人々、沢田教一氏の有名な写真に名を借りるならばまさに「安全への逃避」である(戦場カメラマンであった、沢田教一氏はこのシーンではなく、戦場から川を渡って非難する母と子供たちの写真を撮り「安全への逃避」と題しピューリッツァー賞を受賞した)。そして、次々と飛来するヘリコプターが市民や兵士を搭載し屋上から飛び立ち、海上の空母に向かった。収容しきれないヘリは海上に投棄され、実質的にベトナム戦争は終結をした。


 歴史的事象の起源を探ることは難しい。歴史を紐解くということは、現在という点が描いた軌跡が過去であり、その線をどこまでたどるかはそれぞれである。また、ソ連というマルクス・レーニン主義に基づいた国家群が消滅した今社会主義と、共産主義の解釈があいまいになっている。
 ベトナム戦争の期限を区切るために、日本軍の仏印進駐までさかのぼりたい。資源を求めた日本軍は1940年、仏領インドシナ連邦(インドシナ、現在のベトナムとラオス・カンボジア)に武力侵攻した。1945年3月の日本軍全土制圧でフランスが撤退し連邦が解体した以降は、日本の軍事的な干渉下に置かれていた。第二次世界大戦終戦後、世界各地で民族主義が台頭する。ベトナムも同じであり、日本軍の撤退によりフランスの支配が再開されると、一気に独立の気運が高まった。
 ホー・チ・ミンに率いられたベトナム独立同盟(べトミン)は、終戦後即座に、ハノイにおいてベトナム民主共和国(北ベトナム)の建国を宣言した。宗主国であるフランスは、これを認めず、1946年3月にフランスはベトナム南部にコーチシナ共和国を成立させる。フランスはベトナム民主共和国に武力で侵攻、第一次インドシナ戦争と呼ばれる戦争が始まった。そして新たにサイゴン市を中心に1949年6月ベトナム国(南ベトナム)を成立させる。同年7月ラオス、11月にカンボジアを独立させ、ベトナム国の正当性を認めさせようとした。これが南北分断の起源といえる。


 「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある」
 アメリカを訪れた、イギリスのチャーチル首相が1946年フルトンの大学での講演で使用した「鉄のカーテン」という言葉に象徴されるように、第二次大戦終結から、1989年12月、地中海のマルタ島でソ連・ゴルバチョフ書記長とアメリカ・ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が会談し、終結を宣言するまで、世界は、アメリカを盟主とする資本主義(自由主義)の西側陣営、ソ連を中心とする社会主義(共産主義)の東側陣営の二極対立の緊張状態が続いていた。まさに、お互いに核兵器を突きつけてのロシアンルーレットのような緊張を生んでいた。これが東西冷戦といわれる状態であり、ヨーロッパの東西で睨み合い、様々な途上国で大国の覇権をめぐる戦争や紛争が続いた。
 ベトナムも例外ではなく、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国は、ソ連と中国がベトナムの正当政府と認め、武器援助をし、一方、アメリカは、フランスとインドシナ三国に武器援助をした。特に、アメリカは「一国が共産化されれば、周辺諸国も共産化する」という猜疑的な「ドミノ理論」という考えを持っていた。


 「アメリカン・ドリーム」の歌詞の中で、エンジニアが歌う、「胸が痛みまさ、臭いのは香水で消す フランス人が教えた、ディエン・ビエン・フーの戦いで、フランスは引き上げた、お次のお客は、ドルを撒き散らす……」
 ディエン・ビエン・フーの戦い。1954年劣勢にあった、フランス軍は、ラオス国境に近い、険しい山に囲まれた、ディエン・ビエン・フーに、航空基地と、要塞を築き、2万人に近い兵力を集結させていた。それに対し、ベトナム共和国軍は、人海戦術で、山の頂に大砲を運び上げ包囲し、昼夜を問わぬ猛攻を仕掛けた。雨季の泥にまみれた戦場は悲惨を極めた。2ヶ月に及ぶ戦闘の果て、フランス軍は降伏。ジュネーブの和平協定で停戦。これで、第一次インドシナ戦争は終結する。


 しかし、このジュネーブ協定は、禍根を残す。協定の内容としては、ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図るというものであったが、1955年アメリカの後押しを受けた(アメリカは、15000人ほどの軍事顧問団を派遣していた)、ゴ・ディン・ジエムが選挙で南ベトナムの大統領に選ばれた。ゴ・ディン・ジエムは、ベトナム共和国の建国を宣言し、北ベトナムとの統一選挙を拒否した。アメリカとアメリカ軍事顧問団の支援の下、一方で、ゴ・ディン・ジエムは一族による政治支配と独裁、極端に腐敗した政治、経済政策の失敗で塗炭を舐める国民には弾圧を加えた。特に、国民の崇拝する仏教徒の僧侶の抗議の焼身自殺が続き、世界に衝撃的な映像が伝えられた。
 ゴ・ディン・ジエム政権は、軍事クーデターによって倒され、更なる軍事クーデターが起こり、政情は混迷を深めていった。そして、南ベトナムでは、北ベトナムの支援と指導の下、南ベトナム解放民族戦線(べトコン)が生まれ、治安は極端に悪化した。
 1963年11月ジョン・F・ケネディーがテキサス州ダラスで暗殺され、副大統領のリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任した。1964年8月、アメリカは、公海上のトンキン湾で米駆逐艦が魚雷艇に攻撃されたとして、北ベトナムの魚雷艇の基地に攻撃を仕掛けた。
 このトンキン湾事件については、後年アメリカの駆逐艦が、北ベトナムの領海内で、魚雷艇基地の攻撃任務についていたことか明らかになる。
 8月7日、アメリカの上下院は、ジョンソン大統領に無条件の戦争大権を与え、ベトナム戦争は、エスカレートしてゆく。1965年2月、北ベトナムへの爆撃開始、3月に海兵隊、続いて陸軍、1967年には、最大で50万人を越える若者が、祖国を遠く離れたベトナムに送られ、ジャングルで戦い、泥の中で眠った。相手は、民族解放戦線のゲリラだけではなく主体は、北ベトナム正規軍だった。


 戦争から生きて帰還した者も、戦争の犠牲者であった。常に緊張した状態から開放されても、彼らの心の傷は癒すことはできなかった。国のために戦ってきたはずだが、アメリカでは、反戦運動が盛り上がり、同じ世代の徴兵を猶予された若者はヒッピーとなり青春を謳歌している。歓迎式典もない。社会復帰するには、心の病が重すぎて、麻薬や薬物に依存するもの、犯罪を犯す者もいた。彼らは、「国のために戦った」のに、彼らベトナム帰還兵は社会から「白い目で見られた」のである。
 戦争という暴力が、この世に存在する限り、この作品のメッセージは、色褪せることはない。