コラム



【BACK NUMBER】 vol.1 / vol.2 / vol.3


 1987年6月17日水曜日。ようやく夕方になろうという時間から、帝劇の周りは独特の空気で包まれていた。ちょっぴり浮足立ったような期待感、細い糸が張り巡らされたような緊張感、そしてドレスアップしてワクワクやって来た観客が醸す華やぎ。初日ならではの、あの雰囲気が2倍も3倍も、いや2乗も3乗にもなった夕刻。そう、ミュージカル『レ・ミゼラブル』が本格的に日本初演の初日を迎えたのだ。


 この日の開演時間は、通常のウイークデイのソワレ開幕時間より30分早く、18時。ちなみに、チケット代はS席1万円、A席6500円、B席3500円だ。初日の貴重なチケットを握りしめた観客が、開場と同時に続々と劇場内に吸い込まれていく。観客はそれぞれに高揚し、客席は濃密な空気で満たされた。開幕アナウンス、続く静寂がオーケストラの第一音で破られる。


 ずしんと胸に響くあのオーバーチュアから、ツーロンの囚人たちのシーンへ。そこからは、もう一気。開幕30分あたりにはもう、仮釈放されたジャン・バルジャンが司教様と出逢って改心し新しい人生を歩んでいる。文庫本5冊分のヴィクトル・ユゴーの物語の、その1冊分がまたたく間に展開する。スピーディ。でも、慌ただしさはない。全てが流麗な音楽・歌で紡がれているためだ。1幕終わりの大コーラス「ワン・デイ・モア」にかかる頃には、客席のあちこちでハンカチが舞っていた。


 この日のキャストは、滝田栄のジャン・バルジャン、鹿賀丈史のジャベール、斉藤由貴のコゼット、野口五郎のマリウス、島田歌穂のエポニーヌ、斎藤晴彦のテナルディエ、鳳蘭のテナルディエ夫人、岩崎宏美のファンテーヌ、内田直哉のアンジョルラスなど。プレビュー初日のバルジャンは鹿賀丈史で、ジャベールは滝田栄で、交互にバルジャン役とジャベール役を演じるのだ。2人にとってはとんでもなくハードルの高い舞台である。


 ラスト・シーン。コゼットとマリウスに見守られて天に召されるバルジャンをファンテーヌとエポニーヌが迎え、舞台奥から学生たちが登場しコーラスとなる。「明日は」のユニゾンが響き渡るなか、感動の波が客席に押し寄せた。涙で顔をぐしょぐしょにしている人も多々。カーテンコールでは、もちろんスタンディング・オベーションである。


 そんな客席には、ロンドンのオリジナル・スタッフ、キャメロン・マッキントッシュ、アラン・ブーブリル、クロード=ミッシェル・シェーンベルク、デヴィッド・ハーシー、ハーバート・クレッツマー、アンドレアーヌ・ネオフィトゥらもいた。政界、財界はじめ各界のVIPもたくさん詰めかけていた。 さらにVIPなゲストが、皇太子ご夫妻と浩宮さま(現在の天皇陛下ご夫妻と皇太子殿下)である。『レ・ミゼラブル』初日をご一家そろってご覧になったのだ。日本初演作とはいえ、かつて例のない珍しいケース。それだけ話題の新作であり、ビッグ・イヴェントでもあったということだろう。


 終演後、一般の観客が帰ったあとの劇場ロビーと客席を使ってレセプションが行われた。レセプションの始まりでは、特別な光景が見られた。皇太子ご夫妻と浩宮さまが、衣裳のままそろった出演者をねぎらわれたのだ。なかでも、印象深かったのはアンサンブルの山本篤への「怖くありませんか?」というお尋ねだ。学生ジョリを演じる山本は、バリケードで死体となったシーンで片足だけでぶら下がるというアクロバティックな演技をしていたのである。
 華やかに開けた初日から、『レ・ミゼラブル』の舞台は満員のまま10月30日までのロングランを続ける。5か月のロングランも、帝劇では初めてのケースであった。というよりも、83年に『キャッツ』が西新宿の特設テントで1年間のロングランをやるまで、ロングランという興行形態自体が日本にはなかったのだ。帝劇では、『レ・ミゼラブル』初演のあと、92年に開幕した『ミス・サイゴン』が1年半のロングランで記録を更新している。
 走り始めた初演『レ・ミゼラブル』は、飛び飛びのスケジュールで新たなキャストを加えていった。週に10回公演のためである。ジャベールに佐山陽規、コゼットに柴田夏乃と鈴木ほのか、マリウスに安崎求、エポニーヌに白木美貴子、テナルディエに新宅明、テナルディエ夫人に阿知波悟美、ファンテーヌに伊東弘美と石富由美子、アンジョルラスに福井貴一といった具合。
 彼らは12,274人のオーディションから選ばれたのだが、ミュージカル俳優としてはほとんど新人に近い状態の人も多い。ついでながら、初演キャストの中で全く俳優経験のないまっさらの新人としては藤田朋子がいた。これまた、ついでながら、子供の頃の山本耕史もガブローシュ役の子役の一人とし初演から翌年の再演まで参加。さらに03年には今度は大人の俳優としてマリウス役で『レ・ミゼラブル』に戻ってくる、というロングラン公演ならではの嬉しい例になった。

1987年2月24日 子役最終オーディション

 帝劇初演のあと、名古屋や大阪の好演を経て、再び帝劇に戻り…と、『レ・ミゼラブル』は回を重ねて磨かれ、また成長していく。

(文中敬称略)